なぜモノクロ写真なのか
道東の野付や風連湖は、本州から北海道に車で入る人間にとって最も遠い場所だ。
一番近いフェリーターミナルの苫小牧からでも500キロ近く走らなければならないし、函館からだと700キロ弱。
そのうちのかなりの距離が高速でなく一般道であることを考えると、
高知から東京まで車で移動するような感覚に近い。
道内の移動だけでほぼ一日を費やすことになり、冬の天候によってはさらに時間がかさんでしまう。
しかしトドワラやナラワラの白骨林、春国岱の原野に足を運ぶと、毎年通わずにいられない美しさに魅了される。
今回のイメージはナラワラの枯れ木だ。
このあたりの原野は本州のように、海、山、と言う区切りはなく、木々の林は海につながり、
その境界にはゆっくりと風化する白骨林がある。
夏には花が咲き、訪れる人も多いが、個人的には地表が氷で覆われる冬が好きだ。
吹雪くことの多い日本海側とは違い晴れた日が続き、雪も少ない。
そして低い太陽はいつまでも地平を照らし、ゆっくりと沈んでいく。
何を美しいと感じるかは人それぞれだが、私は自然の中にその原型があるように思う。
木々のたたずまい、枝葉の形、その葉脈。空の雲や水滴。
廃墟であれば、壁のひび割れに、自然に帰ろうとする美しいベクトルを感じる。
そして、この枯木は自然の営みの中で変化し、人間の手では創れない新しい彫刻を、時を重ねるごとに見せてくれる。
写真と言う芸術は、それをレンズで切り取ることで創られる。
語弊があるかもしれないが、野の花を摘んで生ける生け花や、
旅をしながら詠む俳句と通じるところがあるのではないかと思っている。
その時の光、その空間はひと時限りのもので、同じ光景に出合うことはない。
なぜ、モノクロなのかと問われることもある。
芸術と言われる写真の中にも、あふれる情感と鮮やかな色彩で、より多くの人に美しさを伝える映像はたくさんある。
他の写真家のカラー作品と比べると、私の作品は控えめな印象を受けるかもしれない。
おそらく自分にとって創作は引き算である。もろもろをそぎ落とし、残ったものだけを静かに焼き付けている。
特定の感情に導く色彩を排除し、素直な気持ちで空間を受け止めようと思っている。
美しく仕上げられたカラー作品にはたとえそれが自然な色彩であっても、
観光地のライトアップやクリスマスのイルミネーションのように、
ある一つの感覚を強要しているような疎外感にさいなまれる時がある。
そんな風に感じるのは私だけかもしれないが、
何かを加えて多くのことを語るのではなく、言葉にならないものだけを残したい。